そもそも、タイトルが「東のエデン」だった――神山健治『小説 東のエデン』

小説 東のエデン (ダ・ヴィンチブックス)

小説 東のエデン (ダ・ヴィンチブックス)

『小説 東のエデン』を読んだ。TVアニメ版『東のエデン』をみたときにはセレソンゲームの動向に気をとられて、傍流である、平澤をはじめとするサークル「東のエデン」方面には注意がおよばなかった。今回小説版をあらためて読んで、情報サービス《東のエデン》がたんなるSFガジェットではなく、滝沢を中心とする物語の本筋を読み解くにあたって重要なはたらきがあると感じた。そのことにかんして以下にまとめてみる。*1

ニート》≠ニート

東のエデン』には、「ニート」という語のつかい方に違和感を覚える箇所がある。*2 たとえば次のようなところだ。サークル「東のエデン」の参謀・平澤は言う。

「俺はニートではあるが、すご腕のニートを自負してきた。咲やみっちょんのような、特殊技能は持っていないから、経営や法律を学び、すご腕ニートをバックアップできるすご腕になろうとやってきた」(163)*3

ニートNEET)が "Not currently engaged in Employment, Education or Training" の頭字語であることを考えると、平澤が言っていることが端的に矛盾しているとわかる。彼は「経営や法律を学」ぶ大学4年生だ。教育を受けている彼の状態はニートの語義に反する。また、サークル「東のエデン」が起業を見据えた活動であったことを考慮すれば、彼はますますニートのイメージから離れていく。彼には働く意欲もある。彼はニートではない。

このような誰の目にもわかる誤りをあげつらって作品を批判することにあまり意味はない。それは作者も織り込み済みな問題だろうからだ。だからむしろ、ここでいう《ニート》がいわゆるニートの意味からずれたものだということを前提として、はたしてこの《ニート》とは何なのかを問うことのほうが建設的だろう。

謎を解くヒントは、サークル「東のエデン」が運営する携帯サイト《東のエデン》についての平澤のことばにある。「《東のエデン》はニートの楽園だ」(163)。《東のエデン》は、彼らが大学のネットワークを利用して運営しはじめたもので、学生間の口コミで会員数を拡げてきたものだ。いわゆるニートを対象にしたサービスではそもそもない。なぜそれがニートの楽園なのか。

「別の世界」としての《東のエデン

そこで注目されるのは、平澤が提唱する「オッサンたちのインフラを利用しながら、オッサンたちには見えない楽園を創設する」という理想だ(147)。携帯で撮った画像に「レイヤー」(仮想空間上のPOPのようなコメント)を付与し、データベースを拡張していく《東のエデン》のシステムは、滝沢が評するように、「今ある世界にあたらしい価値観を被せて、まったく別の世界をみることができる」ものである(160)。平澤はその《東のエデン》に理想の実現をみる。オッサンたちには見えない、別の世界。平澤はそこに楽園の希望を見出す。

これまで、一度も社会の主人公たりえなかった平澤たち――「高度経済成長」も「バブル」も経験することなく、時代の恩恵に恵まれず、オッサンたちがやり散らかしたその後の煽りばかりを食らってきた。

そればかりでなく、「ニートだ」「ゆとりだ」と蔑まれてきた彼らは、一度としてこの国を「楽園」だと感じたことはなかった。

しかしここにきてようやく、平澤はこの日本が「楽園」たりうるかもしれないと、ささやかな希望を抱き始めていた。(147)

平澤のいう《ニート》は、労働政策上のカテゴリーのことではない。そうではなく、オッサンたちに「ニートだ」と蔑まれてきたことを逆手にとって、自分たちのポジションを「オッサンたち」の対概念として(なかば自虐的に)表現するための語と解することができる。*4 それは、ひとつの精神性、ニート道とでもいうべきものだ。オッサンたちの世界にではなく、別の世界に楽園を見出すこと。平澤が「ニート」であるとすれば、それは彼がオッサンたちの世界にたいしてニート的態度をとるということである。彼が教育を受けており、働く意欲があるにもかかわらず《ニート》であるという矛盾のからくりはここにある。彼は言う。「今の社会は上の世代のオッサンが決めたルールでできているために、自分たちには絶対勝てないようになっている。だったら、オッサンたちとは別の価値観で世界を塗り替えてしまおう」(145)。彼の意欲は、オッサンたちの世界のコミットすることにではなく、それをずらし、オルタナティブの世界を構築することに向けられる。*5

こう書くと、平澤のふるまいは、社会的な自己実現を放棄し自閉していくひきこもり的なデタッチメントのようにもみえる。*6 オッサンたち/《ニート》の対立は、大人/子どもや、社会/個人のそれの変奏である。大人の社会はインチキな抑圧機構であり、成長モデルは解体され、結果として成長の不可能性が示されるという、さんざん繰り返されたお定まりの反成長物語(青春小説)的構図だ。*7東のエデン』もその図式に回収されるのだろうか。――事態はより複雑だ。『東のエデン』にオッサンたち/《ニート》の二項対立があることは間違いない。しかしその主眼は、虐げられる後者を称揚し、前者の優位の転覆させ、勢力図の逆転を図ることではない。問われているのはむしろ、《ニート》の側に内在する葛藤だ。

楽園の構築と崩壊

楽園はどのように構築されるか。平澤が《東のエデン》に楽園をみたのは、それがSNSとして開花したときだ。当初、フリーマーケットで扱うガラクタや、あるいは定食屋といった「物」にPOPを貼り付けるように情報を付加していくサービスであった《東のエデン》は、咲が平澤に「お尻ーダー」というレイヤーを貼ったことをきっかけに急展開をみせる。《東のエデン》利用者の学生たちが、咲にならって平澤についてのレイヤーを次々と書き込み始めたのだ。それは次のようなものである。

〈お尻が図書館を歩いていた〉〈経済学部で目撃〉〈今日ベージュのズボンで裸かと思った〉〈実物目撃〉〈触ってみたい〉〈俺の尻〉〈お尻王子〉〈視線誘導〉〈刮目!〉〈躍動する肉〉……。(146)*8

およそ有用とは思えない情報が平澤に付与されていく。しかし、そのように冗談めいた形で《東のエデン》が「物」の世界から「人」の世界に拡張された瞬間、《東のエデン》は爆発的な利用者拡大をみる。学内のジンクスや噂がレイヤーに書き込まれるようになり、平澤以外の一般学生も続々とデータベースに登録されていく。はては《東のエデン》は恋人探しのツールとしても重宝がられるようになる。

東のエデン》のシステムで注目されるのは、利用者自身がレイヤーを書き込んでいくというCGM消費者生成メディア)としての側面と、「お尻ーダー」のということばに象徴される「自由さ」、そして、現実の事物にレイヤーを貼っていくという世界の多層化だ。それらが学生たちに《東のエデン》の機能の「面白さ」を見いださせ、結果、データベースの急速な拡大につながった。上にみた平澤に付与されたレイヤーには、現実世界では公に口に出すことをはばかられたり、意味をなさかったりするものが目につく。だがそれこそ《東のエデン》拡大の秘密だ。現実の公の場では抑圧されてしまう自由な発想を実現するプラットフォームを、《東のエデン》が提供したということである。オッサンたちが決めたトップダウン型のルールはここにはない。ボトムアップな情報を自分たちの手で生成し、同時に活用すること。そのリアルさが学生たちを惹きつけたのだ。

東のエデン》の携帯サイトにアクセスする滝沢は、「そこには既存の価値観に上書きされたあらたな可能性世界が溢れかえっている」さまをみる(159)。《東のエデン》が示してみせたのは、多数の無名の人々による「面白さ」を原動力とした自由な発想が、既成の価値観(=オッサンたちの世界)を乗り越え、それを書き換えるような別の世界の層を構築しうるまでの強度をもっている、ということだ。平澤はその可能性に狂喜し、そこに楽園をみた。

だがその楽園は長くは続かない。学内のある女子学生にもとに根拠のない誹謗中傷や脅迫が殺到、また彼女の個人情報が暴露されるという、「ネットいじめ」や「炎上」の語を想起させるトラブルが発生してしまう。彼女は精神を病み、大学から姿を消す。サークル「東のエデン」は彼女の両親から提訴され、大学の調査を受ける。「《東のエデン》はいじめの温床となる危険性を孕んでいる」として、サイトのスポンサーも、利用者も、スタッフも去っていってしまう(162)。

何が問題だったのか。そこで、平澤の物語と滝沢の物語が重なり合う。

「もっとすごいことが起きればいいのに」――平澤の物語と滝沢の物語の出会うところ

滝沢は、「迂闊な月曜日」のミサイル攻撃から住民を避難させる方法を、インターネットの掲示板で募る。「掲示板の利用者たちは面白半分で自分なりの“日本救済方法”を書き込み始めた」(300)。滝沢は言う。「あいつらは直列に繋いでやれば結構なポテンシャルを発揮するんだ」(333)。これはウィキ的な、あるいはナレッジコミュニティ的な発想である。やはりCGMだ。そのポテンシャルとは基本的に、《東のエデン》がみせた可能性と同型のものである。ネットワークを通じて2万人のニートたちを繋ぐことによって生まれる奇跡。そしてそこでも「面白半分」であること、「面白さ」がキーワードとなる。

滝沢ははたして、掲示板の利用者であるニートたちの助けをかりて「迂闊な月曜日」の被害を阻止する。しかしそこで彼が目にするのは、避難生活の不満のなかでしだいに、避難誘導を行ったニートたちに疑いの目を向けはじめる住民や、じっさいに避難活動のどさくさにまぎれて盗みを働くニートの存在、そして猜疑が中傷合戦に発展していくさまだった。咲は、そのさいの滝沢の立場を次のように説明する。

〈不確かな情報や自分にとって都合のいい噂で、簡単に自分の意見を変えてしまう無責任な大多数……。滝沢くんは、一番守りたかった人たちに裏切られて絶望し、それで記憶を消すしかなかったんだよ〉(306)

滝沢が記憶を消した理由が咲の言う絶望にあるのかどうかはさておき、滝沢が咲の言うような無責任と裏切りに直面していたことは間違いない。そして、咲自身も、「滝沢くんを裏切った、みんなと同じ」なのだという(288)。咲がみなと同じであるという理由はこうだ。「でも、私も言っちゃったもん。ミサイルが落ちた時、『もっとすごいことが起きればいいのに』って……」(288-89)。「もっとすごいことが起きればいいのに」ということばは、次に引く箇所をふまえている。「迂闊な月曜日」のあとの人々の意識について、咲は「率直な実感」としてこう述べる(53)。

「でも確かに、あまりにもできすぎた感じだったから、みんなどこか危機感なくなっちゃって、不謹慎だけどワクワクしてて、もっと何かすごいことが起こらないかなって思ってた。今回ので、そうも言ってられなくなったけど、『ミサイル・グッジョブ!』って思ってる人、絶対多いと思うよ!」(53)

「もっとすごいことが起きればいいのに」、「もっと何かすごいことが起こらないかな」。強烈な感想だ。「迂闊な月曜日」の張本人である結城は、非正規雇用の袋小路のなかで自己責任の欺瞞への対抗意識を募らせ、既得権益の再分配を目指してミサイル攻撃を発案する。だが、じっさいにミサイルが発射され、蓋を開けて出てきたものといえば、犯人探しのお祭り騒ぎでしかない。そこでワクワクしながら、「ミサイル・グッジョブ!」と思っていた人々の心理は、結城に共感する革命意識などではまったくない。「迂闊な月曜日」は「面白い」ものなのだ。*9 無責任に面白さを追求する意識。

そしてそれこそ、平澤が幻視した楽園を崩壊させた当のものだ。「ネットいじめ」や「炎上」を加速させる要因もまた、この面白さを追求する無責任である。「面白半分」。皮肉なのは、《東のエデン》を駆動したエネルギー源もまた、この「面白さ」であり無責任な奔放さであったということだ。平澤も滝沢と全く同じように、一番守りたかった人たちに裏切られていたのである。ここにあるのは、無責任でインチキな大人の社会にたいする反抗の図式ではもはやない。ここで描かれているのは、インチキなオッサンたちから目を背けてオルタナティブの世界を構築しようとしたにもかかわらず、その楽園は決してオッサンたち的なものの呪縛から自由ではなかった、ということだ。

東のエデン》の顕現としての滝沢

しかしだからといって、諦めるのは早計だ。この無責任の構造を悪として断罪したところで、それはひとつの教条主義にしかならない。それこそオッサンたちの身振りだ。そして、《東のエデン》がみせた楽園の生成力は、その無責任性のために全否定してしまうには惜しい可能性をもってはいなかったか。

「この国の王様になる」と宣言する滝沢には、その可能性が賭けられている。王・滝沢は、いわば《東のエデン》の顕現、共創のプラットフォームとしての身体となるのではないか。いや、彼はすでに《東のエデン》だったといえそうだ。彼は無責任な力の責任を背負うべく(「いじめの温床」として責めを一身に背負わされた《東のエデン》のように)テロリストの汚名を甘んじたのではなかったか。*10 ただし、王としての彼にはそれまでの彼との間に決定的な違いがあるだろう。「この国の王様になる」ということは、学生の王になることでもニートの王になることでもなく、日本の王になるということだ。学生たちやニートたちの限定されたリアルにたいして働きかけるのではなく、包括的・普遍的な視座に立ち、日本全土を《東のエデン》的共創空間へ呼び込むこと。その無責任を贖う贄となり、生成力を生み出す場としてその身を捧げること。あるいはそれが、滝沢がノブレス・オブリージュを遂行し、救世主となる道なのかもしれない。

*1:東のエデン」という語は3つのものを指すのでややこしい。(1)本作そのもの、(2)咲や平澤が参加するサークル、(3)そのサークルが運営する情報サービス、だ。ここでは、(1)の意味で『東のエデン』を、(2)の意味ではサークル「東のエデン」を、(3)では《東のエデン》を、それぞれ用いる。

*2:「ニーツ」のほうが問題かもしれない。第十一章において全裸のニートの大群はそう表現されるのだが、これはもう「ゾンビ」と同じようなモンスターの名前といっていい。《受動ニーツ》と《能動ニーツ》に分類されたりしていることからも、彼らが非人間として扱われていることが読み取れる(そもそも彼らは全裸でコンテナに押し込められている)。ただし、これは現実にニートたちがまるでモンスターのようにとらえられていることを露悪的に諧謔化した表現とみなすべきだろう。

*3:神山健治『小説 東のエデンメディアファクトリー、2009年。ISBN:9784840130417 以下同じ。

*4:ニートと《ニート》の違いは、感覚的に、たとえば「サバルタン」だとか「クィア」といった語の、原義と用語としての意味のずれにちかい。平澤のいう《ニート》は、「ニート」の語の意味をラディカルにずらした思想用語としてとらえられるべきだろう。

*5:いわゆる「きみとぼく」の空間ではないものの、ここには広義のセカイ系の感性が働いているといえそうだ。

*6:むしろはじめからニートではなくひきこもりに焦点をあてたほうが、話の意味は通りやすかったのかもしれない。

*7:参考:仲俣暁生『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』バジリコ、2007年。ISBN:9784862380425 また、神山健治が『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』でJ・D・サリンジャーを参照していたことにも注意。

*8:ニコニコ動画のタグのつけ方を想起させる。《東のエデン》おいて、当初想定されたレイヤー、すなわち定食屋につけられる「〈懐かしの味〉〈回鍋肉定食がおすすめ〉」「〈ゴキブリが入っていた〉〈ご飯が臭い〉」と、ここで平澤に付与されているレイヤーの質の差に注目すべき(145)。定食屋のレイヤーがなお機能的・分類的なものであるのにたいして、平澤のレイヤーは機能的でも分類的でもない。その代わり、そこにはコミュニケーションがある。というより、ほとんどコミュニケーションが自己目的化されているといえる。この、平澤のレイヤーのコミュニケーション性の豊かさに、《東のエデン》の利用者の爆発的拡大や、「別の世界」をみせるほどの強度のからくりがあるとみることができそうだ。参考:濱野智史ニコニコ動画の生成力――メタデータが可能にする新たな創造性」『思想地図 vol.2』東浩紀北田暁大編、日本放送出版協会、2008年、313-54。ISBN:9784140093412

*9:「迂闊な月曜日」は「月曜日爆発しろ!」の類の妄言を地でいくものにさえみえる。

*10:ここに彼が記憶を消す理由があったのかもしれない。彼は裏切りに直面し絶望したから記憶を消したというよりも、生け贄として罪を一身に背負い、そのうえで自分を「殺す」ために記憶を消したのではないか。そうすることで、彼はひとりの人間としての自分が背負うことのできる責任の限界を突破しようとした、と考えることはできないか。